西いなば気楽里通信
西いなば気楽里通信R3.2月号
今月の特集
「布勢の清水」は、気高町殿にある布勢平神社境内の巨石の下からこんこんと湧き出ています。殿の山すそには古墳が点在しており、古来、豪族の産水としても大切に取りあつかわれていたものと思われます。もとは一間四方の小さな井戸だったようですが、鹿野城主亀井茲矩が「その清冷さ氷のごとき」と称賛し、開いて池につくり変え傍らに涼亭を設け夏には日毎に納涼したほか、出陣の際には池の石で刀を磨いて必勝祈願したと伝わっています。
現在の池は、明治40年頃、この清水を活用した簡易水道整備事業により少し姿を変えたそうですが、こんこんと絶え間なく湧き出る清水は、大自然と幾多の先人が営んできた悠久の世界にいざなってくれます。
「殿」の地名は、鹿野城主亀井武蔵守が布勢井の池に避暑に頻繁にやってきたことから領主の屋形を総称して殿村と呼ぶようになったとも伝わっていますが、もっと昔、因幡守であった紀氏郷の屋敷があったことに由来するとも云われています。
殿には、今から1000年も昔、村上天皇の第六皇子勝見親王が因幡守であった紀氏郷の娘さくら姫を思慕して京からはるばるこの地に訪ねて来たという伝説があります。勝見親王は、気高町宿村に滞在して神輿谷を通り勝谷を経て、幾度となくこの地「殿」にやってきました。
昭和62年、さくら姫の伝説は鹿野ふるさとミュージカルで舞台化され、以来現在まで、数年ごとに上演され続けています。
~百里小僧をまつる「飛脚塚」~
布勢平神社のすぐ南、旧道脇の山裾に高さ1メートル余りの「飛脚塚」があります。
亀井武蔵守にはたいへん足の速い足軽が使えていました。遠方の武将への文を携え、1日100里余りの速さで走り回っており「百里小僧」と呼ばれていました。ある日、武蔵守は百里小僧の速さの秘密を調べようと斬ってしまったそうですが、なんと百里小僧の脇の下には羽が生えていたそうです。武蔵守は、なるほど速いはずだと感心します。と同時に惜しい人物を斬ってしまったと後悔の念にかられ、殿村の地に手厚く葬ったと云われています。
なお、飛脚塚はもともと石仏の小字名が残る田んぼの中に建てられていましたが、耕地整理に伴い現在地に移されました。