本文へ移動

西いなば気楽里通信

西いなば気楽里通信R3.7月号

今月の特集

シリーズ「西いなば探訪」⑦ 水の手品師"亀井さん"の居城 ~鹿野城~
西いなば中枢の城
 鹿野城が歴史の表舞台に登場するのは1544(天文13)年。因幡の守護職山名氏の武将だった志加奴入道が、尼子晴久の三万余の大軍に囲まれ、300余の手勢とともにここで討死しています。鹿野城は、因幡(鳥取県東部)と伯耆(鳥取県中西部)の境、内陸交通の要衝にあることから幾度となく争奪戦が繰り広げられました。そして1581(天正9)年。羽柴秀吉による兵糧攻めによって鳥取城が落城すると、亀井茲矩の居城となり、二代政矩が津和野町にお国替えとなる1617(元和3)年まで、西因幡(鳥取県東部千代川以西)の中枢として栄えました。知略を駆使した城攻めや御朱印船などで名高い亀井さんですが、自由自在に水を操った武将だったことはあまり知られていないのかも知れません。今月の西いなば探訪では、鹿野城を通して、水の手品師"亀井さん"の横顔を覗いてみます。
城の守備力を大きく高めた"流し山"

 

 鹿野城は"お城山(妙見山/標高約150m)"に築かれています。現在、ぽこんと山城部がそびえ立っていますが、元々南側はなだらかな尾根続きだったと云われています。 
 江戸時代中期に編纂された史料「因幡志」には、亀井さんが深山から水を引き山を流したことが記されており、切り取られた部分は、現在も「流し山」と呼ばれています。 


水谷川そのものだった"お掘"

 

 亀井さんは、鹿野周辺を流れる河内(こうち)川、末用(すえもち)川、水谷(みずたに)川等の流路を改める大がかりな改修工事を行い、鹿野城の外郭整備や城下町を大きく拡張しています。
 もともとお城山の麓を流れていた水谷川の主流を現在のように移し替え、元の水谷川を利用して鹿野城に内堀・外堀を巡らし城の第1の防衛線としています。また、新たな水谷川は河内川とともに城下町を守る第2の防衛線の役目も担っていました。
再建された鳥居(亀井公墓所入口/鳥取市気高町田仲)
"干拓・用水路開さく" 400年の時を超えて

 

 領内を豊かにするために干拓や用水路などの工事を積極的に行いました。日光池の干拓はその代表的なものと云えます。わずか半年ほどの工事で300石余りの良田を得ています。日光池の干拓地では、御朱印船貿易で持ち帰った生姜を栽培しましたが、山に掘った穴で熟成させ辛味を強くした"日光生姜"などとして現在も高い評価を得ています。
 また、総延長20km、かんがい面積約1千町歩に及ぶ大井手用水路の開さくにも取組みました。関ケ原の戦功により加封された高草郡は、かんがい用水が不安定で時に干害に苦しんでいました。亀井さんは鳥取城主と交渉し鳥取市河原町に土地を得て千代川から水を引
き込みました。工事は7年を要したと云われています。

鳥居の再建 

 
 亀井さんの墓所の鳥居は地震で倒壊していましたが、「大井手用水路開さくの大恩に報いるためにと、平成5年に大井手土地改良区により再建されました。大井手用水路は400年の時を超え今なお多くの田畑を潤し続けています。
御城印・武将印のご案内~鹿野往来交流館"童里夢"~
御城印
 鹿野城の御城印と亀井茲矩の武将印が、鹿野往来交流館でお求めいただけるようになりました。揮毫されたのはともに書家の柴山抱海(しばやまほうかい)先生です。お城山登頂・城下町散策の記念などに是非どうぞ。

※「御城印(300円)」「武将印(300円)」「御城印帳(1100円)」

因幡三名城跡巡りスタンプラリー実施中!
武将印
 鹿野城跡・鳥取城跡・若桜鬼ケ城跡を巡りスタンプを集めてください。スタンプ3つ集めた方にはオリジナル缶バッチや、抽選でオリジナル御城印帳や鹿野城の城板が当たります。

※スタンプ設置場所・・仁風閣、若桜町観光案内所、鹿野往来交流館
※応募締切 令和3年9月26日(日)
鳥取西いなばまちづくり株式会社
〒689-0422
鳥取県鳥取市鹿野町岡木280-3
TEL.0857-82-3178
FAX.0857-82-4178