西いなば気楽里通信
西いなば気楽里通信R3.3月号
今月の特集
戦国時代、西いなば一帯は羽柴勢と毛利勢が激しくせめぎ合っていました。羽柴秀吉の鳥取城攻め前夜、秀吉の命により鹿野城を守備する亀井茲矩は、荒神山城(鹿野町河内)、拘尸那城(鹿野町鷲峰)、勝山城(気高町勝見)など周辺の毛利方の城を次々に攻め落としています。そして、鹿野城のほど近く兵主源六が籠る難攻不落の金剛城を攻め落とすことを考えた茲矩は、盆のある夜金剛城のふもとで盆踊りを催します。
源六は茲矩の策略とも知らず家来を引き連れ踊り見物のため城を出ます。これを知った茲矩は、金剛城に火を放ち攻め落としたと伝わっています。「亀井踊り」はこの戦の様子をありありと語り継いでおり、黒の四ツ目結の紋付に角帯をしめ、腰に刀を差し陣笠、白足袋に太緒の草履姿で踊られます。
現在のように黒紋付の衣装を着て踊るようになったのは昭和27年ごろからと云われています。
同じ由来を持つ「津和野踊り」
亀井家は1617(元和3)年、二代政矩の時、島根県津和野町へお国替えになります。津和野踊りは政矩が津和野藩主になってからずっとお盆に踊られ続けています。中世念仏踊りの振りと黒い頭巾をかぶって踊る大変珍しく貴重な踊りです。黒頭巾は、金剛城での盆踊りに加わっていた武者たちの一団が甲冑を隠すためにかぶったものと伝わっています。
【津和野百景図】(津和野町教育委員会所蔵)
※津和野百景図は津和野藩の御数寄屋番・栗本里治(1845年生)が津和野の名所や風俗・食文化などを100枚の絵に描いたもの。
なお、津和野町では「津和野今昔~百景図を歩く~」が日本遺産に認定されており、歴史や伝統・文化を活かしたまちづくりが一層活発に展開されています。
亀井音頭
一 わしが国さの語り草
口説く音頭に手拍子揃え
踊り踊るもなつかしき
踊り踊るもなつかしき
因州因幡は鹿野の城主
亀井武蔵野守茲矩公は
敵の大将コンコの城の
兵主源六討ち果たさんと
招き寄せたる武者踊り
天正八年文月なかば※
月も真白き夏の夜の
末代までの語り草
二 大将兵主源六は
踊りの手振り打ち見んと
家の子郎党引き具して
鹿野の町に入りくる
月は傾ぶき夜も更けわたり
冴える踊りに兵主の勢は
我を忘れて見とれるうちに
東の空も白みけり
かねての謀らい亀井の手勢
鎧兜に身を固め
谷間谷間を忍び寄り
コンコの城へ火を放つ
三 因州因幡は鹿野の城主
あっぱれ智将ぞ茲矩公は
ときめく兵主源六の
城も手勢も打ち滅ぼして
鬨の声をば挙げにけり
さても兵主源六は
敗戦の将やるせなく
哀れ落ち行く残月に
彼方こなたの不如帰
行方もしらず失せにけり